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目の変化びと

目の変化びと

◆ 物語

              物語

■ 1

 朝。窓から風が吹きこみ、シャツがはためく。
 海。光の粒がまきちらされる。鳥があざやかに横切る。
 風 - - - 潮の匂いは心地よく僕の内部を通る。
 そうだな、久しぶりに海岸通りの向こう、レストラン「wind」に食べに行こう。
 僕の名はひろし。年令はまだ知らない。
 運動靴を履いて外に出る。足取りはしだいに速くなってゆく。窓を閉め忘れたが、まあいいや。遠くに犬連れの子どもが見えるだけで、通りは静かだ。
 ん?
 海岸沿いに置かれた電話ボックスで、呼び出し音が鳴っている。番号を押しまちがえたんだろう。電話ボックスを通り過ぎるとき、僕の体は気まぐれに半回転してボックスに入る。受話器をとる。

■ 2

「ひろしです」
「え? ちがうよ。電話ボックスにかかってるよ」
「ああ…公衆電話なんですか…」
「じゃあ」
「いえ、待ってください。押しまちがえじゃないんです。教えてもらった番号を登録してかけてるんですから」
「何のことかわからないよ」
 ボックスの外では犬連れの子供が立っている。遠くに見えたのにもうここにいるなんて、ずいぶん早いな。なんだか時間の感じが妙だ。こっちを見てる。電話を使いたいんだろうか? 子の握る赤いノートが陽に照らされる。ボックスの中は暑い。受話器も熱い。
「この番号にかけたら世界が変わるって、彼女が教えてくれたんです」
「彼女?」
「いえ、知り合いの女の人ですけど、信用してるんです、僕は。ひろしって言いますけど」
「どうして名前を教えるの?」
「彼女がそうしろって教えてくれましたからね」
「彼女のこと、信用してるんだね」
「まあね、いえ、そうです。はい」
「で、世界は変わった?」
「え? いや、今からですよ」
 犬がほえる。子どもの手から赤いノートが落ちる。
「今から?」
「あ、すみません。またあしたかけなおします。じゃあ」
「ちょっと待ってよ」
 電話は切れた。
 ちょっと待てよ。わけわかんないな。まさか、ひろしって僕のことじゃないだろうな。僕の名前を知ってる人がどこかの窓から僕がここを通りかかるのを見てて僕の名前を語って僕に電話する…でも、何のために?
 首を回すと、窓は多い。双眼鏡なら遠くのビルの窓からでも僕の体は見えるだろう。外を歩く体はみな、視線にさらされている。他人の体を眺めていなくても、遠くの窓から双眼鏡で朝の海を眺めてる人はいそうだな。
 ボックスから出ると、赤いノートを踏みそうになり、よろける。子どもも犬もすでに見あたらない。ノートを拾い、表紙をめくる。

■ 3

 赤い風船が描かれている。妙にあざやかな赤だ。さわってみると、ちょっとざらついている。何を使って描いてるんだろう? 
 ページをめくる。赤いりんご。きれいだな。
 ページをめくる。ああ、いちめんの赤。あざやかな赤のひろがりにうっとりしたまま電話ボックスの隣の青いベンチにすわる。
 ページをめくる。文字のようなものが、これまた美しい赤で書いてあるが、僕の知らない文字だ。文字じゃないかもしれない。両手を伸ばしてあくびする。あれ? ひざに置いたノートがない。横にいつのまにやら男の子がすわっててノートを持っている。犬は見あたらない。
「返してよ…ああ…そうだね、それはきみのノートだね。その字のようなの、何て書いてるの?」
 男の子は首をかしげる。僕は赤い文字を指さす。男の子は笑顔になってうれしそうに返事してくれる。
 ん? 何言ってるんだ、この子は?
「もういちど言ってくれる?」
 男の子は首をかしげる。僕は赤い文字を指さす。男の子はふたたび返事してくれる…ああ…知らない言葉だ。僕は、もうひとつだけ知ってる言語でしゃべってみる…通じない…
 男の子がベンチの後ろを指さす。振り向くとタクシーが停まっている。後部座席のドアはひらいている。さっきあくびしたとき伸ばした手でタクシーを停めてしまったのかもしれない。僕は運転手に向かって大きな声で言う。
「すみません、まちがいです」
 タクシーは去らない。僕はベンチから立ち上がって、ひらいたドアに首を突っこむ。
「すみません、停めるつもりじゃなかったんです」
 運転手はじっとこちらを見つめている。わっ、男の子が僕の左脇から急に顔を出して運転手に何か言う。運転手も男の子に向かって何か言う。ああ…知らない言葉だ。僕の知ってるもうひとつの言語を運転手にも使ってみるが、通じない。僕の左脇を通り抜けた男の子はタクシーに乗りこみ、僕の腕を引っぱる。僕の体は後部座席に入ってしまい、ドアは閉まり、タクシーは出発する。しゃべろうとしたが、僕の声は無意味な音にすぎない。口を閉ざす。
 レストラン「wind」を通りすぎ、勢いよく道を曲がったとき、何かが運動靴にあたる。

■ 4

 鏡だった。屈んで拾う。鏡を覗く。おいおい何だよ、ナカタじゃないか? 何なんだよ、おまえ。何でここに?
 車内を見まわすが、僕と運転手と男の子、三人だけだ。ナカタはいない。鏡を覗くと、やはりナカタだ。何なんだよ? 僕がナカタだとすると、ひろしはどうなってしまったんだ? 待てよ、さっきの電話の声、聞き覚えのない声だったけど、そもそも自分の声ってのは聞き覚えのないものだし、あの声はひろしという名の僕の声だったのかも…ああ、でも、「ひろしという名の僕の声」だなんて、わけわかんないな。それに、あれは、電話の向こうのひろしの声だったんだし…僕は小さく声を出してみる。
「あー、アー」
 うーん? これはひろしの声だろうか、それともナカタの声なのか? 顔はナカタだが、声はナカタかひろしか不明だ。体はどうなってる? ひろしの体の特徴は? 身長体重はこんなもんだった気がするな。腕のほくろの位置…うーん、どうだったかな、よくわからないよ。そういえば視力、きのうより上がったようにも感じるけど、気のせいかも… ……  ………いつのまにやら眠ってしまう。

 意味のわからない声に起こされる。運転手の声だった。座席に鏡が光っている。ドアはひらいている。男の子はいない。もしかしたらあの子は僕のお金を使ってここまで来たかっただけかもしれない。
 お金? 料金表示の数字は消えている。走った距離もわからないし、適当に財布からお金を取り出して運転手に見せる。運転手はしばらく見つめている。え? 言葉がちがうってことは、通貨もちがうの? いや、運転手は僕の手からお金を受け取る。降りる前にもういちど鏡を見る。やはりナカタだ。わかったよ、しようがない、僕はナカタだ。
 タクシーから出ると、まったく見覚えのない場所だった。

■ 5

 白く大きな扉があった。巨大な壁が、扉の左右に伸びひろがっている。壁の高さは10メートルくらいだろうか。振りむくと、大きな森のひろがり。森を抜ける道をタクシーが去ってゆく。森と壁に挟まれたところに僕は立っている。鳥の声は聞こえるが、鳥は見えない。人も見えない。
 扉に近づいて押してみる。まったく動じない。こんな大きな扉、どんな具合にひらくのかな? 扉を叩いてもほとんど音はしない。
「おーい!」
 声も虚しく消える。静かだ。扉はひらきそうにないし、おなかもすいてるし、どうしよう? 森に入っていくのは気が進まない。となると、壁に沿って進むしかないか。
 右にするか左にするか、首をまわす。あれ? 扉の隅に隙間があるぞ。体を横にすれば、僕の体ならなんとか通り抜けれそうだ。隙間に横向きの体を入れ、ゆっくり足を滑らせて進む。壁も扉もけっこうな厚みだ。狭いな。うっ。鼻の頭がこすれる。

 抜けると、森がひろがっている。森と壁に挟まれたところに僕は立っている。鳥の声は聞こえるが、鳥は見えない。人も見えない。何なんだよ、さっきと同じ光景じゃないか。扉も大きくて白くて同じ形だし、壁も同じように伸びひろがっている。まいったな。壁の向こうにもどって森の道を歩いて帰り道を探すか? 車の音がする。
 森から出てきた黒い車が停まる。扉がひらき、降りてくる。
「ひろしです」
 ああ…何が起こってるのかわからないけど、とにかく言葉が通じるのはありがたい。電話の声から推測するのとちがって、ひろしは僕よりかなり年上に見える。それとも別人か? でもまあ、会ったとたんひろしだと言ってるんだから、同一人物だろう。
「僕もひろし、いや、ナカタです」
「自分で来られたんですね。あしたこちらからお迎えに行こうと計画してたんですがね」
 やはりあのひろしだ。
「自分で来たわけじゃないけど…いったいどういうことなんです?」
「さあね。僕もひろみに教えてもらったようにやってるだけで、まあ、ナカタさんと同じようなものです」
「ひろみ?」
「彼女の名前です。車に乗ってます。では、行きますか」
「どこへ?」

■ 6

「駅です」
「ひろみさんがそう言ってたんですか?」
「そうです。いや、ちょっとちがうかな…」
「ちがう?」
「ああ…いや、駅ですよ」
「よくわからないけど、まあいいです。で、電車に乗ってどこへ行くんです? はじめから駅名を教えてくれてたら、こんな遠回りしなくても直接そこに行ったのに」
「でもねぇあなた、知らない人に教えられた場所にナカタさん、行きますか?」
「なるほど。それもそうですね。で、どこに行くんです?」
 車のドアをあける。
「ひろみに聞いてみてください。ああ…」
 後部座席には体を折り曲げ横たわっている人がいる。
「この人、ひろみさん…ですよね」
「眠っちゃったみたいです。しようがないな。しかし…ちょっと困りましたね」
「何が困るんです? 行き先を聞いてないなら、起こして聞けばいいじゃないですか。まあ、気持ちよく眠ってるみたいだし、急ぐことはない、駅に着いてから起こしましょう」
 ひろしは運転席に、僕は助手席にすわる。
「困りましたよ」
「え?」
「それがですね、ひろみはいったん眠るとちょっとやそっとでは起きないのです…しかもいったん眠ると、ずいぶん眠りつづけます」
「だけど、まさか何日も眠るわけではないでしょう?」
「それがね、冗談じゃなく、眠りつづけるんです。この前は1週間ほど寝てましたか。その分、寝る前にはずいぶん長く起きてましたがね。
 びっくりされたようですね、冗談ですよ。起きているひろみを1週間ほど見なかったというだけのことで、僕が起きてるときにはいつも眠っていたというだけで、たぶん僕が眠っているときに起きてたんでしょう…ほんとは眠りつづけてたのかもしれませんが…わかりません」
 かすかに寝息が聞こえる。車は動き出す。森に入ってゆくとまもなく暗くなり、ひろしはヘッドライトを点ける。今何時だろう? まあ、時間なんて関係なくなってるけど。ん? 緑の光が見える。近づくと森の道の左側に緑のネオンが光っている。車は停まる。
「ここです。降りてください」
「どういうことです? あれ、何これ…駅?」
 ネオンは緑の文字「駅」になっている。
「いや…これは…だけど…ネオンだけで、建物さえありませんよ」
「おなかすいてません?」
「何ですって?」
「ナカタさん、食事しませんか?」
「それはまあ、おなかはすいてますけど」
「それはよかった。ここは地下食堂の入り口なんです」
「なんだかよくわかりませんが、地下食堂の名前が『駅』なんですね…なるほど…でも、こんなところにわざわざ食べに来ますかね?」
「ほとんど誰も来ない。さあ、行きましょう」
「ひろみさんは?」
「だいじょうぶです。車の鍵はつけておきますから、もし起きたら、自分で運転するでしょう」
「え? 起きたら地下食堂にやって来るんじゃないんですか? それに、これからとうぶん眠るのなら、僕たちが食堂から戻ってきたときも眠ってるでしょうし。それにですよ、目覚めた彼女が勝手に車を動かしたら、僕らが困るでしょう?」
「だいじょうぶですよ」
 笑いながらひろしは車から降りる。さっきまで困ってたはずなのに、いったいこいつ何考えてるんだ? で、どうしよう? ひろしといっしょに食べに行かないとして、だからといって車に残っててもしようがないし、それにおなか、すいてるしな。だけどこの人、車に置きっぱなし寝かせっぱなしで、ほんとにだいじょうぶかな?
「ひろみさん」
 起きはしない。まあいいか、今さら何がどうなったら困るのか、どうならだいじょうぶなのか、わけわかんないし。僕も車から降りる。ひろみの横たわる車を森の道に置いたまま、ふたりは緑のネオンの扉を抜け、薄暗い階段を下りてゆく。なんだか少しひんやりする。階段が終わり、扉をもうひとつ抜けると、たしかに食堂だった。狭い食堂だ。壁から板が突き出てテーブルになっている。木の椅子にすわる。
「カレーサンドとミルク。この店ではひろみはいつもこれです。きょうは僕が代わりに食べることにします。ナカタさんは何がいいですか?」

■ 7

 目の前の壁を見ていたひろしは視線を上げる。僕もつられて視線を上げる。そこには赤い文字があった。読めはしない。ああ…あの男の子が持ってた赤いノートの文字と同じ言葉かな? 天井の赤いランプが目に入る。
「これ、ひょっとしてメニューですよね? いったい何語なんです?」
「え? ああそうか、すみません、向こうの壁です」
 振りむく。向こうにもメニューが貼られている。あれなら読める。
「納豆チーズサンドとコーヒー」
「聞こえました? 僕のも聞こえてましたよね、じゃあ、それでおねがいします」
 僕は視線を赤い文字にもどす。
「で、これ、何語です?」
「森に住む人たちの文字です。森に住むといっても、きこりをしたり森のきのこを採ったり森で狩りをして暮らしているわけではありません。森の地下に住居がひろがっているのです」
 ああ…すると…赤いノートを持った男の子もタクシーの運転手も、森の地下に住んでるのだろうか? だけどこの人、どうしてこの文字、読めるんだろう?
「ひろしさんも森に住んでるのですか?」
「生まれはね。もうずいぶん昔に森を出ました」
「森の地下で暮らすって、どんなものなんでしょう?」
「子供でしたからね、いろんな部屋を迷路代わりにして遊びましたよ。じつに愉快でした。あ、どうも」
 板のテーブルにミルク、コーヒー、サンドイッチの皿 2 枚が並ぶ。パンに挟まってるのはカレーに納豆チーズ? 森の人の食べ方なのかな? ほかにどんなメニューがあるのか、読める方の貼り紙に目を向けたとき、天井のランプが赤から黄色に変わる。
「あ、いけません、急いでください。もうあまり時間がない」
「どういうことです?」
「しゃべらないで食べてください」
 何なんだ、いったい? 納豆チーズサンドを頬ばる。何なんだ、この味? ひろしは口をせわしく動かしながら振りむいて店の奥、緑の扉を見ている。トイレだろうか?
「では、行きましょう」
「うっ、ちょっと待っ、…喉が…ふっ…どこへ?」
 ひろしは返事せず、緑の扉に向かう。天井のランプが黄色から緑に変わる。
「まだ食事代、払ってませんよ。それにまだ…」
「急ぎましょう」
 緑の扉はトイレではなく、ふたたび地下への階段だった。ひろしのうしろからあたふた下りてゆく。急に冷えこむ。
「ひろみさんはどうするんです? 車の中に置きっぱなしですよ」
「だいじょうぶですよ。まだまだ眠るでしょうし、もし起きたら自分で運転するでしょう」
「彼女がいなくてだいじょうぶなんですか? 何をすればいいのか、教えてくれてたんでしょう?」
「眠ってるんだから、しようがない」
 ん? 何の音? どんどん近づいてくる。階段が終わる。縦横ともに 2 メートルほどしかない狭いコンクリートに立っている。まぶしい光。うわっ、電車じゃないか! ここは地下鉄のプラットホーム? 電車は停まり、狭いプラットホームに合わせて、ちょうどドアがひらく。
「切符、買ってないですよ」
「え? ああ、いりません」
 ひろしは車両に飛びこみ、反対側のドアから飛び出す。あ、あ、あ、あ、何なんだよ。
「ナカタさん、早く!」
 飛びこんだ足がもつれる。くそっ。よろけながら反対側のドアを抜ける。すぐにドアは閉まり、電車は出発する。
「なんとか間に合いましたね」
 ひどいじゃないか、まったく。こんなの、前もって説明してもらわないとな。
「どういうことなんです?」
 立ってる場所は向こう側と同じ、狭いプラットホーム。こちら側も階段につづいている。
「「駅」で電車を待っていたのですよ」
 うーん、なるほど。まあそれはそういうことになるのかもしれないけど…電車を待っていたことにはちがいないけど…でもねぇ…振りむいて向こうを見る。
「だけどこんなの、線路に降りて渡ればいいじゃないですか」
 線路を見る…線路が見えない…底は見えない…どこまでも暗い闇…足音…振りむくとひろしは階段を上ってゆく…しようがないな…うしろからゆっくり階段を上る………何というか………まあな………階段が終わる…扉…ひろしは身を階段の端に寄せる…

■ 8

 ひろしにうながされて扉をあける。押されて入ったとたん、扉は閉まる。そこには 3 つの扉があった。前に 1 つ、右に 1 つ、左に 1 つ。ふりむいても扉。あわせて 4 つ。入ってきた扉はひらかない。何なんだよ、おーい!
「おーい、ひろしさん、どういうことです? どういうつもり?」
 4 つの扉に囲まれた、縦横 2 メートルほどの場所に立つ。
「あけてくださいよ」
 僕の声には力がない。はじめからこういう計画だったのか? あれこれ誘導して、ここに連れて来て、ひとりにする。でも、それからどうするつもり? どうしよう、これから? どの扉から出よう? まあな、3 つともあけてから決めればいい。あれ? ここは閉まってる。もしかして…あ、ここもだめ…ああ…どれもひらかない…ということは…閉じこめられた? そんなばかな…でも、なんだかな、あんまり驚かなくなっているよ、妙なことが起こるのに慣れてきてるな。いいんだか、わるいんだか。天井には赤いランプ。緑になったら扉がひらくのか? 緑になる前に黄色になるのか? もういちど、4 つの扉を回って押したり引いたりしてみる。だめだ。まあな、あせってもしかたがない。ふと、何日も眠りつづけるというひろみのことを思い出す。ひろみはあせりはしない。眠ってればあせりはしない。夢の中であせってるのかもしれないけれど。眠気がやってくる。床に横たわる。きのうはじゅうぶん眠ったというのに、車の中でも眠っていたというのに、どうしてしまったんだろう、ずいぶん眠い………

■ 9

 夢を見た。家族の夢だった。僕の知らない家…ひょっとしてナカタさんの家? ん? 僕がナカタなんだから、「ナカタさん」ってのも変だよな。僕もナカタ家の一員としてここにいるのかな? 昼間なのに僕を入れて家には4人もいる。休日なんだろうか。ナカタの父(なんとなくそんな気がする)がパソコンに向かってキーボードを叩いている。僕がナカタなら、ナカタの父は僕の父、ということになるのだが、どうしても僕の父には思えない…父の後ろを通りすぎるとき、パソコンの画面をちらっと覗く。「 日曜日には小説を 」という文字が目に入る。小説だって?

………夢から目が覚めた。ここはいったい…うわっ、見知らぬ人が見おろしている。僕はあたふた立ち上がる。4つの扉に囲まれた部屋…ああそうか…閉じこめられてるんだった。
「どうしてここに? あなたも閉じこめられたのですか?」
 見知らぬ人はうなずく。言葉は通じているようだ。

■ 10

「おぬし、何を焦っとるんじゃ!」
「うわっ、もう少し静かにしゃべってくださいよ」
「誰も聞いとる者などおらんのに、おぬし、何を気にしとるんじゃ!」
 わおっ! 何なんだ、このじぃさんは?
「せっかくここまで辿り着けとって眠るだなんて、おぬしはまぬけか?」
「まぬけ? まぬけと言われたら、それは…」
 そりゃまあ、まぬけだわな。わけのわかんない公衆電話に出て、わけのわかんない男の子とわけのわかんないタクシー乗って、わけのわかんない巨大な扉の端っこの、わけのわかんない狭い隙間を通り抜け、わけのわかんない地下食堂でわけのわかんないサンドイッチ食べ、わけのわかんない地下食堂のまた地下の、わけのわかんない地下鉄の電車、ドアからドアへと走り抜け、あげくのはて、こんなところでわけのわかんないじぃさんに怒鳴られて………あんたの言うとおり、これはもう、じゅうぶんまぬけだわ。
 とつぜんひとつの扉がひらく。ひろしが入ってくる。

■ 11

「さあ、行きましょう」
 どこへ? と尋ねかけてやめる。ひろし、わけのわかんないおじいさん、につづいて扉を出る。階段のつもりで足を踏み出したが、廊下だった。入ってきた扉とはちがう扉。ということは、ひろしは地下鉄とは別の方角からやってきたのか?
「ひろしさん、どこに行ってたんですか?」
「おぬし、何ごじゃごじゃ言っとるのじゃ!」
 ひろしの笑い声がひびく。廊下は薄っすら、緑の光に包まれている。奇妙な角度に折れ曲がった通路を、ふたりはどんどん歩いてゆく。僕はついてゆく。まぬけ? けど、この状況でどうするのがまぬけでないのだろう? ふたりについてゆくのがまぬけだとしたって、たとえば廊下がふたつみっつに分かれるところを曲がるとき、ふたりが進んだのとちがう通路を選ぶのがまぬけでないのだろうか…4つの扉に囲まれた部屋に引きかえすのがまぬけでないのだろうか…ああ…でも…引きかえしたくても引きかえせはしない…どんなふうに右に左に右斜めに左斜めに、廊下の分かれ道を進んできたのか、もう覚えてはいない…突きあたり…扉。
 廊下は終わり、ふたりにつづいて扉を抜けた。

■ 12

 目が眩むような光を浴びる。 まっしろなひかり。

 光ひかり光ひかり光ひかり………

 目が慣れてくると、光を浴びて森がひろがっている。

  

  

  

 森に目が慣れてくると、インジゴブルーの花やスカイレッドの鳥が咲き乱れ飛び散っている。
 ひろしもおじいさんも呆然と突っ立っている。

  

  

  

 すばらしいな。みんな輝いてる。光が降りそそいで………光? え? ちょっと待てよ、おかしいじゃないか、地下食堂「駅」から地下鉄への階段を下りて、すぐに階段を上がって4つの扉に囲まれた部屋に入って、そこから平面の廊下を歩いてきたんだから、ここも地下のはずなのに、どうしてこんなに明るいんだ?
 見あげると、わっ!

洞窟

 この森は地下にあるんだ! 洞窟の天井にひらいたいくつもの穴から光が降りそそいでいる。ん? あの穴、上から誰かこっちを見てるぞ。

■ 13

右手をズボンのポケットに入れて洞窟の上からこっちをのぞいている人 が、とつぜん呼びかけてきた。

『おーい、キビタキは鳴きましたかー?』

 キビタキ? 鳴くってことは鳥か? 僕はおじいさんに尋ねる。
「キビタキ…」
「なんじゃ?」
「キビタキってわかります?」
「おぬしの目のまん前におるじゃないか!」
 何言ってるんだ? じぃさん、ぼけなのか? まぬけとぼけの会話か? 僕の目のまん前にいるのはじぃさん、あんただろ? ひろしを見ると、ニコニコして二人の会話を聞いている。
「おじいさんの名前、キビタキっていうんですか?」
「人は呼ばれた名になるんじゃよ」
 やはりぼけか?
「どういうことなんでしょう?」
「おぬし、生まれたとき、名前があったかね?」
「それはまあ、生まれる前から親が決めてましたから」
「あほ。そうじゃない。人から、たとえば母親から名を呼ばれるまで、自分の名を知ってたかね?」
 まぬけの次は、あほ、か…
「赤ん坊は言葉を知りませんからね」
「あほ。赤ん坊に向かって名前で呼びかけるのは、その名前にしてしまうためじゃよ。かなしいことに、人は他人に呼ばれた名になってしまうんじゃ」
 うーん、まあ、そう言われたらそういう気も…
「おい、あそこだ、どっち見てる! あほ。あっちじゃ」
 じぃさんの視線を追う。
あれですか? ああ、すごい。みごとな鳴き声ですね」
「ほら、飛ぶぞ!」
 洞窟の天井にひらいた穴のひとつに向かって、穴の上に立ってる人に向かって、キビタキが飛ぶ。赤や青の鳥とすれちがい、キビタキの黄が飛翔する。
「うわっ、すごいすごい」
「おぬし、何をぼやぼやしとるんじゃ! ちゃんと答えてやらんか!」
「え?」
「鳴きましたか、って聞かれたんじゃろ?」
「あ、はい…おーい! キビタキ、鳴きましたよーぉ!」

『ありがとー!』

「どうしてあの人、キビタキが鳴いたかどうかなんて尋ねたんでしょうね?」

■ 14

「キビタキが地下の森で鳴く日、奇跡が起こるのです」
 キビタキが地上へと抜け上がった瞬間、地下の森を照らしていたひかりは消え、真っ暗になる。あざやかにひらいていた花たちの色は消え、けたたましく鳴いていた鳥たちの声はいっせいにやむ。
 闇の静寂のひろがり。
「どうして奇跡なのに闇なんですか? 奇跡って光でしょう?」
「ある種の日食なんじゃよ」
「日食ですって? だけど日食とキビタキ、どんな関係なんです?」
「そうですね、いわゆる日食とはちがうのです」
 三人は暗闇の中に突っ立っている。
「どう説明したらよいかな…簡単に言うとじゃ、地下洞窟から森の上空へとひろがっとる、ある特殊な空気の層があってな、それがキビタキの鳴き声に反応するんじゃよ」
 特殊な空気? ん? キビタキが飛んで行ったあたりに薄っすら、明かりがちらついている。
「さあ、行きましょう」
 ひろしは小型の懐中電灯をポケットから取り出し、足元を照らしながら慎重に登ってゆく。おじいさんと僕もひろしにつづいて、かすかなひかりの方へ、ゆっくり登ってゆく。
「ひろしさん、知ってたんですか?」
「何を?」
「日食のこととか」
「ああ、キビタキ日食ね。いいえ、キビタキがいつ地下の森に来るのか知りません。それにしても今日、キビタキが鳴くだなんて…」
「キビタキ日食ですって? 真っ暗になること知らなかったのなら、どうして懐中電灯、用意してたんですか?」
「準備万端と言いますか、それはですね…」
 洞窟から抜け出る。
「うわっ!」

 見事な焚き火だった。

「誰もいませんね」
「犬がおるぞ!」
 一瞬、海岸通りで出会った男の子が連れていた犬が頭をよぎる。もしかしてあの犬?…いや、そんなばかなことはない。
「あの椅子、さっきの人がすわってたんでしょうか? あの人、どこにいるんでしょうね?」
「おぬし、何が食べたい?」
「え?」
「おぬしの好きな食べ物じゃよ!」

■ 15

 僕は焚き火に照らされた犬に見入りつつ、何を尋ねられたのかぼんやりしたまま呟く。
「夢…」
「おぬし、何てことを!」

 …………

 闇を走る。見えないのにどうしてぶつかったりつまずいたりしないんだ? しかも僕の足が走ってるわけじゃない。僕はこんなに速く見事に走れはしない。僕は何をしてる? 僕は闇の中、うずくまってじっとしている。膝の間からなんとか頭を起こし、かすかな光を求めて目を見ひらくが何も見えはしない。耳を澄ませても何も聞こえやしない。いや、聞こえている…身を通過してゆく音…風の音…
 闇を駆ける。速すぎる…このスピードはほとんど限界…足がバラバラになって空中に飛び散ってしまいそう…鼓動のスピードも極限だ。僕はどこにいる? 僕は気持ちよさそうにしている…ゆっくりと落ちついた鼓動…うずくまったまま、いつのまにやらまぶたも落ちて…もはや身動きひとつできず、うっとり眠ってしまいそう……

 …………

 気がつくと、森を抜け出ている。道に黒い車が停まっている。森と道の境に犬。見あげると満月。車のドアがひらく音。それが合図であるかのように、犬は森の中へと走り去る。運転席からひろみが降りてくる。見まわすが、地下食堂への入口を示す「駅」のネオンは見つからない。ここは、車の中に眠るひろみを残したまま、ひろしに連れられ地下へと立ち去った場所ではない。長い眠りから目覚めたひろみがあそこから、ここまで運転してきたのだろう。
「どうしてここへ?」
「ひろみさんこそ、どうしてここに? それに、眠ってたのにどうして僕を知ってるんですか…それとも知らない?」
「あなた、ひとりなのね」
「三人だったんですけど、ひょんなことからひとりでここに…たぶん犬に導かれたのかと…」
「犬?」
「ついさっきまでそこにいたんだけど、森の中へ戻って行きました」
「そうなの?…困ったわね。このままだとかれらは森に迷ったままになってしまう…」
「だいじょうぶですよ、場所はわかってます。地下洞窟を出たところの焚き火の近くにいます」
「でもあなた、わたしをそこに連れていけるの?」
 もちろんです、この車で地下食堂まで戻ってくれれば案内できますよ、と言いかけて、4つの扉に囲まれた部屋から地下の森までの地下迷路を自力で抜け切れるはずがないと気づく。
「あ、いや、それは…」
「困ったわね、どうすればいいのかしら」
「おかしいな、ひろみさんなら何もかも知ってるのかと」
「どうして?」
「ひろしさんがそう言ってました」
「そうなの?…あの人は思いこみが強いから…」
「そうだ、もしかしたら」
「何かわかったの?」
「ひろみさん、何が食べたいですか?」
「何のことなの?」
「ひろみさんの好きな食べ物ですよ」

■ 16

 ひろみはぼんやりしてしまい、なかなか返事してくれない。
 僕の作戦はこうだ。
 焚き火のところでおじいさんに好きな食べ物を尋ねられたとき、僕はぼんやりしててつい「夢」だなんて返事してしまって、そしたらこんなところに来てしまった。あのときちゃんと食べ物、たとえば「納豆チーズサンド」とでも言っておけば、今ごろは焚き火を囲んで楽しく食事してたんだろう。
 あそこで納豆チーズサンドが出てきたとは思えないけど、まあ、「残念じゃが納豆チーズサンドはないな。ところでおぬし、カレーはどうじゃ?」「いいですね、じつはカレーも好物なんです」「うっほっほ! おぬしはしあわせ者じゃ。カレー、用意しとるんじゃよ。うまいぞ!」という感じで、焚き火の近くに置かれた椅子の後ろあたりからカレーが出てきて…ということになってたんだろう…たぶん。
 ということはだ、あの焚き火のところへ戻るには、ひろみに「あなた、何が食べたいの?」と尋ねてもらって、「カレーが食べたいですね」と僕が返事して……え? だめだ! 返事するのは僕だ、ひろみじゃない、あ、あ、あ、ちょっと待って……
「だめだよ!」
 ひろみは夜空を見あげている。
「わたしが好きなのは、そうね…夢…かしら」
 ひろみの視線を追う…満月…のはずが、中が黒い…満月のまん中に鳥の影…キビタキ? 車のドアがしまる音。満月から鳥の影が消え去る。視線をもどすと、車はすでに遠い。
 あ、あ、あ、ちょっと………わっ!

■ 17

 森の中から、人が出てくる。誰だ? ああ…この人は海岸通りで拾ったタクシーの、運転手。森の地下の住まいから出てきて、これから仕事に行くところ? 話しかけようとして、やめる。僕の言葉は通じないのだ。運転手は道を横切り、反対側の森へと消える。森の闇から出てきて、月の光を一瞬だけ浴び、すぐに向こう岸の森の闇へと消える。
 タクシーがやってくる。手を上げると停まる。ドアがひらく。運転しているのはひろしだ。
「ひろしさん、どうしてここに?」
「こら! 早く乗らんか!」
 助手席からおじいさんが怒鳴る。僕は後部座席にすべりこむ。ドアは閉まり、タクシーは発車する。ひろみの去った方へ、満月に向かって走る。それともあれは満月なんかじゃなく、今は夜でさえなく、これはすべてキビタキ日食のせいで…そうすると、今はいつなんだ?
「このタクシー、どうしたんです?」
「道端に落ちとったから、拾ったんじゃよ」
「拾った? さっき運転手が森から森へ、道を横切りましたよ。タクシー盗まれて、探し回ってるのかもしれません。僕はこれに乗って、海岸通りから森の壁まで来たのです」
「同じタクシーかな?」
「え?」
「おぬし、ほんとにこのタクシーに乗ってたのかな?」
 そうか、タクシーの運転手が森の道を横切ったすぐあとでこのタクシーに乗ったせいで、同じタクシーと思いこんでるだけかもしれない。待てよ、もしあのとき乗ったのと同じ車なら、あれから誰も乗せてなければ、僕が降りたときのまま、いまも座席に鏡が置かれてるかもしれない。座席を調べようと姿勢を動かしたとき、何かが手にあたる。

■ 18

 鏡だった。鏡に映る僕はほんとにナカタなのかどうか…もしひろしなら…このタクシーを運転しているひろしではなく、朝、家を出たときのひろしなら?
 朝、家を出た? 朝だって? いつの朝なんだ? きょう? きのう? それとも?
 鏡を顔に近づけようとして、満月が映る。
「おぬし、何をするんじゃ!」
 ふいに、この道は、ひろみを残してひろしと二人で地下食堂「駅」へ降りていった道ではない、少なくともあの近くではない、と納得する。だってあそこは昼間でも暗かった。ヘッドライトが必要だった。空は樹木におおわれていた。満月が降りそそぐはずがない。
「どうかしました?」
 ん? 妙な音…鏡にひびが入る音。うわっ!
 とつぜん、森の道は全面、陽に照らされる。キビタキ日食の終わり?
 急ブレーキ。僕は運転席と助手席の隙間に頭をぶつける。うっ。鼻の頭がこすれる。頭を上げると、フロントガラスの向こうは、いちめんの青空。道が無い? 三人は車を降りる。
 断崖。見おろすと、青い海のひろがり。空と海の境が見えない。
「これはいったい、どういうことなんです? ひろみさん、どこへ行ってしまったのかな?」
「満月の照らす道を進んで行ったんでしょう。この車は陽の光のほうへ向かいましたからね」
「月の道? 陽の道?」
「われわれは、ひろみとは別の道を進んでしまったのです」
「何言ってるの? わかれ道なんてなかった」
「ナカタさんは気づかなかったでしょうけど、あったんですよ。日食が終わった一瞬、でしたがね」
 風はなく、潮の匂いもしない。ただひたすら青い。
「おぬしのせいじゃ!」
「まあ、まあ、そう怒鳴らずに。ナカタさんは何も知らないんですから」
 まさか、たかがあんな鏡一枚のせいで、日食が終わり、道が二つに? ばかばかしい。僕は後部座席にもどる。ひび割れた鏡の裏側に何か、書かれている。

■ 19


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